3歳ずつ離れた兄と妹の3人兄弟の次男として、福岡で生まれ育った矢野さん。
幼い頃は兄とよくスーパーファミコンで遊んでいた。
「兄は小さい頃から天才でしたね」
3歳でスーパマリオを”全面クリア”するなど、様々な逸話を持つ天才肌な兄。
当時から人気のあった他のゲームでも挑戦したが全く歯が立たず、学校の成績も頭一つ抜けている兄の姿を目にするにつけ、「兄はスーパーマン」のように思えるときもあった。
兄弟という身近な存在だったからこそ、どうしても兄と自分を比較してしまう。
そんな劣等感から矢野さんの人生は始まった。
「兄は器用貧乏で色々やっていたが、自分はサッカーしかやってこなかった」と話す通り、高校までの10年間はサッカーに打ち込む日々を過ごす。
矢野さんはサッカーを始めたのは小学一年生の6月。校門の前で配られていたビラを見たのがキッカケだった。
兄と違う分野で自分の得意なものを見つけること。また、当時はJリーグが開幕した直後だったこともあり、漠然とサッカー選手を目指したいと思ったことも始めた理由だった。
生まれ育った福岡は全国屈指のサッカー激戦区。近隣の中学・高校ともレベルの高いチームや選手がしのぎを削っていた。その影響もあってか、中学入学当初は部活に所属したが、次第に「さらに上を目指したい」という思いが強くなり、途中で地元のクラブチームの門をたたく。
ハードな練習でも有名だったクラブチームでは、夏の県大会行きを逃した試合後そのまま、罰として全員でグラウンド100週を走るなど苦しい思いもした(ちなみに矢野さんは90周を回ったところで、走りながら意識を失って倒れたため、後日残りの10周を走った。他のチームメートも100周に到達する前にリタイアが続出していた)が、それ以上に上手くなりたいという思いで必死に乗り切った。
高校時代は3年生の春にヘルニアを患う。ヘルニアは湿度が高いと痛みが生じやすいこともあり、最後の大会が迫る梅雨の時期は痛みと闘う毎日。それでもなんとか針治療やテーピングなどで痛みを誤魔かしながらプレーを続け、引退までキャプテンとしてチームを引っ張った。
「中高時代を振り返ると、相当しんどかったなぁって思い出はありますね。でも、そのときの経験が今も自分を支えています」
外資系タイヤメーカーに研究職として新卒入社した矢野さんは、入社式早々から焦っていた。
はじめての上司はフランス人。共通言語は英語だった。
「言ってることがわからない。伝えたいことが伝わらない」
もともと英語の読み書きは得意だったが、(実際の場面での)言語を通じた”生の”コミュニケーション力不足を痛感する。
「『shape(シェイプ)』なんて中学生ぐらいで習う単語じゃないですか。『この形が大事なんです!』と言おうとしたけど、口からその単語が出てこない」
研究職だったため、物理学や統計学についても勉強を迫られた。しかし、それ以前に英語力不足によって相談相手の上司にすら「伝えたいことを十分に伝えられない」ことは死活問題。
入社早々から「やばい!」という危機感を感じたことで、片っ端からあらゆる英語勉強法を試し始める。
駅前留学やSkype英会話に始まり、「アニメ好きだったので、YouTubeで調べた吹き替え版のアニメのセリフを真似したり。少し勇気を出してカウチサーフィンとかを使って日本に来る外国人のホームステイのホストになり、外国人を居酒屋に連れていって英語を喋る機会を作ったり。会社の食堂で一人で食べてる外国人社員を捕まえて話しかけたり、とにかく出来ることは何でもやってましたね」
その甲斐あって入社2年目を過ぎる頃から徐々に話せる感覚を掴んでいく。それによって以前は感じられなかった「目の前の世界が広がる」感覚を体感した。
「これまで生きてきた経験から、自分が一番”ビリ”っていう集団や環境に身を置いたほうが自分は伸びることを知っている。日々『自分まだまだだなぁ』ということに気づかせてくれる環境が必要なんです。もちろんしんどいけど、一生懸命やるモチベーションになりますよね。だから、そういう環境に身を置きたい」
「自分を見つめ直す機会になりました。『俺、何がしたいのかな』って」
3年前の25歳のクリスマス、矢野さんは一人ニューヨークにいた。
実は、当時交際していた彼女と旅行に行く予定だったが、出発日目前に失恋してしまう。
「航空券をキャンセルしようと思ったんですが間に合わなくて。もう行くしかなかったんですよね」
楽しみにしていた2人でのニューヨーク旅行が白紙になり、出発直前まで眠れない日々が続いた。
それでもなんとか思い直し、ホームステイ先を探したり、現地で開催されているイベントや勉強会などを調べたりしているうちに、「夜7時にカフェに集合」という現地のとあるイベントの告知が目に留まる。
内容はよくわかっていなかったものの、ほかにやることもないので、ふらっと顔を出してみた。すると、現地で日本語を勉強している外国人グループに遭遇する。
何人かのグループのメンバーと話してみると「えっ、日本人なの?」と驚かれた。通りすがりで参加した矢野さんは、その場で即席の”日本語教師”として、勉強会の講師を頼まれることに。
思いもよらぬ出来事だったが、現地の勉強会に参加したことである思いが芽生える。
「あっ、日本を好きな人ってこんなにたくさんいるんだ!こういう外国人の人を日本に連れてきたいし、日本人を外国人とつなげたい。もっとそういったインタラクティブなコミュニケーションができる機会を広めたい」
自分のやりたいことに巡り合った矢野さんは、帰国後も動き続けた。一人で黙々と実現する方法を調べたり、休日に日本語を話したい外国人と英語を話したい日本人を集めてイベントを企画したりするなど、やりたいと感じたことを形にするために奔走する。
「思い返せば、大学受験のときも第一志望の大学に落ちたから進学した大学での勉強も頑張れた。就職活動のときも第一志望の業界の会社に落ち続けて、これで最後と思って受けた外資系の会社に入ったから英語に興味を持つきっかけに出会えた。(失恋して)一人旅になったことで自分が生涯かけてでもやりたいことに出会えた。そのときは悔しくて哀しくて嫌な思いもするけど、全て自分の糧になると思ってやっています。もし自分がもっと思い通りに(人生を)歩んでいたら、今みたいに土日や平日24時間全部費やしても『楽しい』と思えるなんてことにはきっと巡り会えてなかったから」
「これは僕の口癖で、大学時代からいつも言ってます(笑)自分の生き方もそう在りたいと思っていて」と照れながら話す矢野さん。
幼い頃に感じた劣等感やしんどい経験、思った通りに進まない環境に遭遇しても、動き続けることで24時間取り組んでいても苦にならないほど没頭できることを見つけた。
「一回一回の成功確率なんて人によって大差はないと思ってるんです。だからどれだけ打席に立ち続けるか。どこにいてもストイックに『自分を磨く』っていう姿勢は必要だと思う」
自分が没頭できることに出会った矢野さんだが、今はまだその実現の途中にいる。
「もっと多くの人が、言語を通してインタラクティブな楽しさを実感できる世界を創りたい」
自身の経験から生まれた夢の実現に向けて、これからも矢野さんはストイックに自分を磨き続けながら生きていく。
「自分が活躍することで、育ててくれた会社に『恩返し』をしたい」
新卒入社した外資系の会社を退職し、やりたいことを実現するために現在の仕事を始めてから2年が経つ。
「前職では3年半ってまだまだな時期に退職。会社にとっても大赤字ですよ」と苦笑いする矢野さん。
「でもいつか、自分が活躍することで、育ててくれた会社の上司や先輩に『良かった』と思ってもらえるような、そんな形の恩返しがしたいですね」
その想いも矢野さんをストイックに行動させる原動力になっているようです。
(編集・撮影 / 87年会)