ウィンドサーフィン部に所属していた大学時代。
レースで上を目指して打ち込んだり、競技の運営や大会のスポンサー探しなどの学連の活動にも携わりながら、走り回る日々を過ごし、充実した大学生活を送っていた。
その一方で、 「ほかのことをする暇もないまま」就活に突入することに少し不安もあった。
就活をはじめた当初、漠然と「楽しいことに関わりながら仕事をしたい」と思い、映画会社や広告会社を志望。
しかし、考えがまとまらないまま出足からエントリーシートにつまづき、苦戦が続いた。
その後、商社に進んだ大学の先輩の話を聞いたことで、国際的な業務に携わる仕事に興味をもつ。
きっかけをくれた先輩の影響で商社を受け始めると、これまでの苦戦していた就活が一転。「国際的」というキーワードが自分にあっていたのか、トントン拍子で選考が進み、新卒で総合商社に入社することになった。
入社直後は、初めての仕事に戸惑いながらも、社内のイベントなどにも積極的に参加したり、入社前の研修で仲良くなった同期たちに支えられたりしながら、充実した日々を送っていた。
しばらくして会社での生活にも慣れ、落ち着き始めた頃、ある疑問が頭をよぎる。
「このまま人生終わってもいいのかな」
そうふと思ったときから「自分がどんな人生を過ごしたいのか?」を模索するようになり、社内外の人と会い、話を聞き、様々なセミナーや勉強会などにも顔を出してみるものの、なかなか納得のいく答えが見つけ出すことができない。
「将来的に自分はどうしたいのか?」
「何を思って今ここにいるのか?」
「今の仕事にやり甲斐をもってやれているのか?」
いくつもの質問が思い浮かんでは、頭の中でグルグルと回り続ける。
「あの頃が一番人生に迷っていた」と語るように、焦りやモヤモヤばかりが募っていく日々。
そうしてるうちに入社してから3年が経とうとしていた。
もがき続けていた松田さんは、人と会い続けていくうち、徐々に「世界一周をしたい」という思いを抱くようになっていく。
しかしそこに辿り着く手段が見えずにいた。
そんな時、ヒントをくれる人物と出会う。
ピースポートで働く、世界一周を何度も経験した大学の部活の先輩だった。
その先輩に会って話を聞いたことで、船で世界一周をする仕事に興味を抱く。
日が経つにつれて、船の仕事への興味は膨らんでいくばかり。
そんなとき「客船で働いていた友人がいるけど、会ってみる?」という話をもらった。
迷わず会いにいって話していくうちに、船で世界の寄港地を回る仕事のイメージや、海の上で働くイメージが思い浮かんでいく。
話終わって帰る頃には、すっかりその船で働くつもりになっていた。
「お金を減らしていく形の世界一周はしたくないと思ってたけど、目の前に船の仕事で世界一周に行けるチャンスが見えて、『これだ!』って思ったんです」
通常、その客船のクルー募集は空きが出ない限り実施されない。しかし、そのときは思いが通じたのか、若干名の募集が出ることになり、船の仕事で世界一周をするための扉が開いた。
数年間もがき続けた末に、ようやく探し求めていた生き方に巡り合った。
そして、その生き方を実現する理想の仕事・客船クルーとして働くチャンスを得る。
客船のクルーとして働き始めること一年半。
待ち焦がれていた世界一周の航海を経験するチャンスが巡ってきた。
100日間で、18カ国12港を船で巡る旅。
横浜港を出発し、南半球の海を船で進んでいく。
「あぁ、私ここ通ったんだなぁ」と自分が通った航路をはっきり実感できるのは、何にも代えがたい経験だった。
日の出や日没とともに徐々に変わっていく海の色や、海に浮かぶ島々の雰囲気が変化していく景色。
陸や空から眺めるのとは違い、船から眺めることでしか味わえない光景を幾度も目の当たりにした。
移動距離が長い日は寄港地に着かず、四方を海に囲まれたまま一日を過ごすこともある。
そんなときは、これまで地図で見ることしかなかった国と国、寄港地と寄港地の距離感を肌で感じたり、海に囲まれた景色の中で星空を眺める機会に恵まれたりと、陸地では得難い経験を得ることができた。
旅の前半、アフリカ大陸最南端に位置する喜望峰(南アフリカ共和国)で「世界の果てまで来たな」と、これまでの人生では一生来ることができると思っていなかった光景を見て感慨深い気持ちになった。
「途中で疲れたこともあったし、もちろん大変なこともあったし、(寄港地につかない日が続いて)果てしないなぁって思ったときもあったけど、間違いなく経験できてよかった」と語る通り、当時の自分が必要としていた要素を全て満たしてくれる理想の仕事であった。
しかし、旅の終盤、南米大陸最南端の都市・ウシュアイア(アルゼンチン)に着く頃、松田さんは船を降りることを決めていた。
本人も「天職に近い」と感じていた船の仕事を離れることを決めた背景には、どんなきっかけがあったのか。
そこには2つの出来事が関係している。
一つは船の上で共に働いた外国人クルーたちから受けた価値観を揺さぶられる体験。
客船のクルーは、4分の1が日本人クルー、4分の3近くが外国人クルーいう構成だった。
一緒に働く機会の多かったフィリピン人クルーの中には、日本語や英語のほか、アラビア語、タガログ語、スペイン語に至るまで5ヶ国語を話すクルーもいた。
東欧から来たクルーたちも船で働く空き時間に、母国語のルーマニア語以外の言語を勉強している姿も目にした。
「この船で働く前はドバイのホテルで働いていたとかも当たり前に起こる。そういう風に自由に人生を設計するのもアリなんだと思って」
また言語に加え、船の仕事で一年のうち10ヶ月家族と離れていても、家族を大切にしていくフィリピン人のクルーの生き方にも衝撃を受けた。
松田さんが船の仕事で時間をともにした外国人クルーたちは、疲れているときに明るく優しく仲間を元気づけてくれるのはもちろん、どこの国に行っても生きていけるようにスキルを磨いたり、家族を支えていこうとしていたりする姿に心が動いた。
もう一つは、世界一周の旅の終盤・南米大陸で経験したある出来事がきっかけだった。
「世界一周をしてみて英語はグローバル言語だから、もちろん英語を話せることで多くの人とコミュニケーションを取ることができます。ただ、南米にいったら全然英語が通じなかったんです(笑)」
スペイン語は世界でもっとも使われている国が多い言語。
「全然英語が通じないときに、昔習ってたスペイン語をちょっと話してみたら通じたんです。人生に思い悩んでた時期に、1年間スペイン語を習っていて」
もがいていた時期にも立ち止まらず、興味を持ったことは躊躇せず取り組んでいたことが活きた。そのときは何かにつながるわけではなかったが、数年後に次の道を考えるキッカケとなった。
「言語が通じるっていうのも嬉しかったし、言語を学ぶのも楽しいと思ったし、言語を通じて分かり合えるのも嬉しかったんです」
外国人クルーたちと同じ船の中で過ごすことで、多様な言語による多様な働き方・家族の支え方を見聞きしたこと。
南米大陸での出来事によって、言語に対しての新たな楽しみと可能性を見出したこと。
松田さんは次のステップに進むべく、船を降りることを決心。
スペイン語を学ぶために留学する道を選んだ。
「その時その時『やりたい』と思うことに向かって進んでいかないと、最終的に自分の行きたいところには辿り着けないと思ってて。だから、その時その時にやりたいことに躊躇せずに進んでいくことが大事だと思ってます」
最初の就職は『国際的』というキーワードで商社の仕事に辿り着き、その次は『好きを仕事に』『旅』というキーワードで船の仕事に辿り着いた松田さん。次のステップとなるスペイン留学では『言語』をキーワードに、新たな可能性に辿り着くべくチャレンジを続ける。
そんな松田さんには中学生の頃から続けている習慣がある。
いつも『こういう人生がいい!』っていうのを手帳や日記に書いて保存しているそうだ。
「その時その時、自分が感じたことや思ったことって、大きな財産だなぁと思ってて」
周囲の人の意見を大切に受け止めつつも、自分が感じたことに素直に生きること。
松田さんが「人生模索期間」と語るように、もがき続けて、苦しくて時間がかかるときもある。
いまこの時点で人生に答えは出ていないし、まだまだこれから自分の人生がどうなっていくのかは分からない。
それでも、自分の信じた直感をコンパスに次の一歩を躊躇なく踏み出していく。
「その先に自分の手に入れたい未来がある」
と信じて。
松田さんの新しい旅がまた始まる。
直感を信じて行動する松田さんは家族にも支えられています。
その中でも特に大きな存在がお母さん。
「『いつも結果オーライ人生だよね』と挑戦を肯定して、いつでも味方で居てくれる」
そんな身近な存在が松田さんの行動力を支える源なのかもしれません。
87年会