宮城県の中心都市・仙台から車で1時間ほど離れた町で生まれ育った斎藤さん。
海外で暮らすことに興味を抱いたのは、中学時代に遡る。
「もともと中学生ぐらいの頃にハワイへ家族旅行に行った際、英語で話しかけられてもうまく答えられず、悔しくて」
英語とともに「自分の世界を広げたい」との思いから、実家の近くの高校ではなく、通学に時間のかかる仙台市内の高校の英語科を受験し、仙台へ出てきた。
「高校の英語科も同じような境遇の子が多くて。
『英語が好きで』っていう理由で、地方の町や田舎の町から1時間ぐらいかけて通う子もたくさんいました。
だからあまり違和感は感じなかったですね」
「高校1年生か2年生のときにオーストラリアのケアンズへ3週間の語学研修へ行って。
それ以外にも、英語科にいたことで、国際交流や海外の文化が好きな友達ができたり、ALTの先生と仲良くなって一緒に遊びに行ったり、国際交流パーティーに行ったりしながら過ごしていたので、より『海外へ行きたい』っていう気持ちが強くなったと思います。
一応、部活もやってたんですけど、どちらかというと国際交流に力を入れる方が大きかった」と振り返る。
高校3年生になり、進学を考える時期に差し掛かると、
「うちの高校から東京の大学へ行く人はあまりいなかったんですが、私は東京の大学へ行きたい」と考えるようになった。
というのも、「たまたま高校の英語の先生が東京の大学出身で。内閣府から推薦された語学強化高みたいなのに選ばれてた高校だったので、先生には力を入れてたんです。
その先生の教え方がすごく上手で、その先生いいなと思って進学相談したら、『絶対東京の大学へ行った方がいい』って言われて。
はじめは地元の公立大学や国立大学に行こうと思ってたんですけど、その先生に『いや、東京にはもっと色んな人がいるし、面白い人に出会えるから』って言われたんです。
そこから東京の大学を考え始めて、色々調べてるうちに行きたい大学が見つかった。そんな感じでした」
高校の英語の先生の存在が、
自身の進路選択の考え方を変える大きなきっかけとなった。
大学進学を機に地元から東京へ出てきた直後は、馴染むのに時間がかかった。
「なかなか馴染めなかったですね、最初は(笑)。
10年ぐらい前だから、あまり覚えてないけど、苦労した気がします。
大学一年の時はなかなか親しい友達ができなくて。
私の入った学部が、社会科学部っていう特殊なカリキュラムの学部で。
大学1年生の場合、他の学部は共通というか、語学系の授業とかで毎日会うんですけど、
私の学部は変わってて、週一回しかみんなと会わない学部だったから、(特に最初の頃は)同級生と関わりを持つ機会が少なくて」
最初の転機は、入学して3か月ほど過ぎた時期に見つけた学園祭実行委員の募集。
「最初サークル選びが入学直後の4月にあったんですが、もたもたしてたら入りそびれてしまい…。
ただ、サークルの募集と違って、学園祭実行委員の募集は6月ぐらいの遅い時期から始まるんですよ。
大学入学早々『やばい、サークルに入りそびれた』と思ってた中、ちょうど学園祭の募集が遅れて始まったので、『まだいける』と思って入った感じです。
その後、1年生の9月ぐらいから本格的に学園祭実行委員の活動を始めました」
「高校時代から企画とかを考えるのが好きだったので、今振り返ると、そのときから大学生活が楽しくなったと思います。
そこで過ごした時間も長かったし、色々と分かち合う仲間や経験も多かったし。その時期にバイトも始めて、生活も安定してきて」
また、もともと「国際協力の勉強をしたい」と思っていたこともあり、
大学1年のときに、学内のスタディーツアーに参加してカンボジアを回るなど、徐々に国際協力のテーマや海外に関わる機会に参加するようになっていく。
次第にスタディーツアーだけでなく、アルバイトで貯めたお金を使い、一人旅で様々な国に出かける機会も増えた。
そして大学2年のとき、一人旅でアイスランドを訪れた際に参加したボランティアが、自身の性格に影響を与える転機となる。
「アイスランドでは、国際協力のテーマから少し逸れましたが、自然環境保護を学ぶボランティアに参加し、現地の施設で数ヶ月間、ヨーロッパやアメリカから来た人たちと一緒に働きました。
アイスランドは、日本人のあまり行かない国っていうところも面白いと思って」
しかし、ボランティアが始まってしばらく経っても、なかなか他の国から来た仲間と、思うように打ち解けられずにいた。
「そのときまでは“自分の殻”にこもっていて。
今も“自分が”っていうのはあまり好きではなくて、内向的な性格なんですけど。
当時はもっと内向的で、アイスランドへ行ったときもあまり馴染めず…」
「それで最終日にベルギー人の子に『今日最後だね』とか『あんま仲良くなれなかったね』とかって話しかけたら、
『あゆみは色んなことを気にしすぎだから。人の顔色を見て話しすぎなくていいと思うよ』って言われたんです」
「『誰も“あなたが何て答えそうか?”とか、そんなに気にしてないんだから、もっと自由に、もっとオープンになれば。気にしすぎないで』って言ってくれたことが、けっこう大きくて」
「以前は大学でも色んな人の顔色を見るところがあったけど、
その出来事があってからは『そっか!たしかに(あの時)みんな、あまり他の人のこと気にしてなかったな』と思えて。
そこから色んなことがあっても『ま、いいか』って思えるようになって、自分の『殻が破れた』というか。
帰国してからは、そのとき仲良くなった友達や学園祭実行委員の友達からも、『その時から変わったよね』って言われるようになって。
『自分を出せるようになった』と思います。
そこからは、より自分のほうから声をかけたり、いろんなことを仕掛けたりするようになった」と振り返る。
大学4年になると、休学して世界一周に出かけた。
「大学2年生まで必死にバイトしてお金を貯めてて。
もともと貯めたお金は留学に使おうと思ってたんですけど、普通に英語を学ぶためだけに留学するのはつまらないし、留学だと『1つの国にしか行けないよな』と思って。
だったら『このお金を使って色んな国で学ぼう』と思ったんです」
色々と方法を検討した結果、旅行者として各国を巡る形ではなく、5か国を選んで1〜2ヶ月ほど順番に滞在し、それぞれの国々でボランティアとして現地NPOなどの活動に参加しながら、それぞれの国を転々としていく形を選んだ。
「全く違う文化や宗教のある複数の国に滞在して、その国の人に触れて、そこから学ぼうと思ってましたね。
そう、それで『そうしよう!』と思って大学を休学して、5カ国選んで応募して、各国のNPO団体とかの活動に参加して」
世界一周で回ろうと決めた国は、トルコ、インド、タイ、ケニア、フランスの5ヶ国。
選び方にもこだわり、文化・言語・宗教・社会貢献という4つのキーワードで分けたという。
「仏教・キリスト教・ヒンドゥー教とか、信仰する宗教の違う国で分けたり、異なる言語を話す国で分けたり。
あと、大陸も分けたんです。本当は南米の国も行きたかったんですけど、時間がなかったから行けなくて」
「そのときは短期間の滞在だったんですけど、各国に1ヶ月以上滞在したことで『ただ旅行者としてじゃなくて、その国の住んでる人の視点から観れるようになった』のはすごく大きなことだったなと。
文化とかも、それが習慣になる少し手前ぐらいまでになったと思います」
「あと、世界1周したことで大きかったのが、(同い年の)みんなが大学4年で卒業して、新卒で入社してっていう『ルートから外れた』こと。
今もかなり外れてるんですけど、『外れるのが怖くなくなった』というか」
「でも、海外に行ってみると(自分と同じように)外れてる人も多かったんです。
だから、『外れる』っていうことが“良いか悪いか”じゃなくて、“一つの方法”なんだと思えるようになりました」
1年間の世界一周の旅を終えて帰国する頃、もともと考えていた大学卒業後の進路に対する考えに変化が生まれた。
「私の場合は、ボランティアをしながら世界一周をしてみて、(大学を卒業してすぐに)国際協力の道に行くのは辞めようと思いました。
それまではボランティアをしたりしてたんですけど、慈善活動だけでは生きていけないし、
やっぱりちゃんとビジネスでお金が回るような仕組みを作らないといけないと思って。なので、大学卒業後はビジネスの道へ進むという方向性を考えていました」
しかし、帰国直後に起きたリーマンショックが就職活動を直撃。
瞬く間にあらゆる企業の採用が冷え込み、自身も周囲の友人も就職活動の方向性や考え方の変化を余儀なくされた。
「みんなそうだと思うけど、あのとき、リーマンショックの後で一番就職が厳しいときで。
私も(リーマンショック前までは)大学に入って、大企業に入って、企業留学して、そこから大学院へ行こうとか勝手に思ってたんですけど、そういうのが全部なくなって…。そんなに上手くいかないなと。
友人たちも大手企業から中小企業も見るようになったし、就職浪人する人も増えたし、私も思ったように就職活動がうまくいかなくて」
「今振り返ると、その時は『何をしたいのか』絞れてなくて、手当たり次第に受けてた感じでしたね。
本当は、総合商社で『世界を駆け回りたい』とか『世界の橋渡しになることをしていきたい』と思ってたんですが、うまく結果が出なくて」
それでもなんとか、最終的にアフリカ専門の中古車輸出会社から内定をもらい、翌春から新卒の営業職として働く場所が決まった。
内定の決め手は意外なことだったと語る。
「そのとき雇ってもらえたのは、実際に『アフリカに行ったことがあったから』っていう理由だったんです(笑)
だから意外と世界一周も活きたなと思って(笑)」
「それ以降も、いろいろと『過去が活きる』んです。
その次に転職した会社も外資系商社だったんですけど、そこも『色んな国を見て海外を知っている、行ったことがある』っていう理由で雇ってもらって。
『経験は無駄にならない。回り道も無駄にならない』と思えるようになりました」
大学を卒業し、新卒入社を間近に控えた2011年3月。
地元・宮城県沖を震源とする東日本大震災が起きた。
いても立ってもいられず、高校時代までを過ごした宮城へ戻ることを決めた。
新卒で働き始めたとき、「3年間日本で働く経験を積んだら、海外で働くことに挑戦したい」と考えていたが、一旦その計画を白紙に戻し、
1年後に新卒入社した中古車輸出会社を退職。
地元・宮城県に戻り、しばらくの間、地域活性化事業に取り組む会社でアルバイトとして働くことにした。
生まれ育った故郷に対し、今の自分にできることを模索する日々を送る。
そんな毎日を過ごすうち、「宮城の震災の後で『宮城を若い人から盛り上げたい』」という思いから、「七夕コン」という街コン企画を開催しようと考えた。
東北三大祭りの一つ「仙台七夕まつり」の日に合わせ、参加者同士で一緒に七夕の短冊を作る企画は、当日200人ほどが訪れる大盛況のイベントとなった。
震災直後という逆境の中で企画したイベントが反響を生み、自分の中でも手応えを感じられた。
その一方、地元に戻って家族や旧友と過ごすうち、自身の今後進むべき道に対して、
「このままでいいのだろうか?」という不安が募り始める。
「やっぱり、これまで自分の勉強してたこととか、大学でやってきたことは海外と関わることだったし、『海外とのビジネスに携わりたい』『海外で働きたい』っていう気持ちが強く出てきて」
「震災があって、その後どんどん落ち着いてくる中で、やっぱりもともと自分のやってきたことをやらないと、
せっかくやってきたことが生かされないと『社会に取り残されちゃうんじゃないか』という焦りもありました」
次第に今取り組んでいることと自分のやりたいこととの乖離が大きくなったことで、新しい道へ進むことを決意。
転職して、外資系商社で営業として働くことになった。
転職先の本社はドイツだったが、
世界各地に支店が点在し、自身の採用された東京支社を含むアジア本社はシンガポールに置かれていた。
入社時に上司から「東京支社で頑張っていれば、アジア本社へ移れる可能性もある」と言われ、しばらくの間、仕事に集中しようと心に決める。
一心不乱に仕事に打ち込み、あっという間に転職してから半年が過ぎようとしていた。
ちょうどその頃、 社内研修でシンガポールのアジア本社を訪れる機会がやってくる。
アジア本社で活発に働く同僚たちの様子や経済成長著しいシンガポールの熱気溢れる光景。
それらを目の当たりにしたことで「ここで働きたい」という気持ちを強く抱いた。
以降、海外出張のたび、海外オフィスへ転勤するにはどうしたらよいかを現地の同僚に相談したり、上司と今後のキャリアを話す機会があるたび、海外転勤への想いを伝え続けたりしながら、チャンスが巡ってくるのを待った。
そして研修から帰国して1年半後、アジア本社の社長が来日するチャンスを耳にする。
「どうにかして、せっかくのチャンスを活かしたい」
ずっと相談していた同僚たちからも背中を押され、来日中の隙間時間を狙って直談判を試みた。
しかし、アジア本社に空きポジションがないことを理由に却下されてしまう。
落胆するも、ここで諦める訳にはいかない。
前向きに次の方法を考えることにした。
当時、外資系商社で働いていたこともあり、経営層や上司にMBA(経営学修士)取得者が多いことを肌で感じていた。
「彼らのように海外の大学院でMBAを取得すれば、海外で働くことに繋がるかもしれない」
社内の人物を見て、将来のキャリアイメージが具体的に湧き始め、
アジア本社に近いシンガポールか香港の大学院へ留学し、MBA取得を目指そうという考えに至った。
一度そう決めると、机に向かい、猛然と海外MBAの大学院入試に必要となるGMATやTOEFLなどの勉強を始めた。
2年後の2015年秋入学を目指し、平日も週末も休まず、仕事と食事以外の時間を極力MBAの勉強に充てた。
その間、これまで好きで企画していた国際交流イベントやAirbnbのホストなどはすべて休止し、勉強漬けの生活を送る。
しかし、数ヶ月後、無理がたたり、体調を崩してしまう。
そんなある日、以前、国際交流サイトを通じて知り合い、来日時に都内を案内したメキシコ人の友人から、小包が届いた。
プレゼントとともに同封されていた手紙には、
「日本での楽しい時間をありがとう」
というメッセージが書かれていた。
それを見て“ハッ”とした。
「自分は何のために、こんなに必死に勉強してるんだろう?」
「今この時間を、自分の好きなことに使うこともできるのに、私はただただ毎日机に向かって勉強している」
少し立ち止まって考えてみると、
本来の目的は、その先に海外で働くことだったはずなのに、気づけば(その手前にある)MBA留学自体が目的化しかけていた。
「これからどうするべきか?」
悶々とした毎日を過ごすうちに、会社がアメリカの企業に買収・合併され、各国オフィス間を異動できる可能性が消滅。
もともと海外駐在を目指して入社したが、
事実上、その会社の人事異動によって海外駐在を実現する道は閉ざされた。
予期せぬ出来事だったものの、「それであれば自分で行こう」と吹っ切れ、
約3年間勤めた外資系商社の退社を決断。
会社の判断を待つ形ではなく、
自ら海外へ行き、現地採用のチャンスを掴むことに挑戦しようと決めた。
「自分の行きたいところに行き、自分の好きなことを勉強したり、海外で働く事にチャレンジしたい」
その思いを実現するステップを考えたとき、
海外駐在の場合、駐在地は会社判断に委ねることになってしまう。また、MBA留学を目指す場合、どうしても勉強そのものが目的になってしまう。
そういったこれまでの教訓を経て、次に選んだ方法は「ワーキングホリデー制度」。
数年前まで、「海外へ行くなら、遊びとみなされる可能性の高いワーキングホリデーよりも、駐在・海外就職・大学院留学のうち、どれかを選択するほうが良い」と考えていた。
しかし、あらためて考えてみると、それは自分自身の勝手な“思い込み”や“見栄え”だと気づく。
ワーキングホリデービザは、30歳以下の若者に与えられた、いわば“特権”。
取得することで、様々な国に滞在し、自由に就学・就職できる機会を活用すべきだと考えを改めた。
一般的にワーキングホリデーといえば、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドといった北米やオセアニア地域の国々がよく知られている。
しかし、調べていくとヨーロッパにもワーキングホリデーでいける国があると知った。
本当は勉強中のスペイン語を学ぶためにスペインに行きたかったが、スペインはワーキングホリデー対象国ではなく、
興味のあるデザインを学べればとデンマーク行きも検討したものの、物価の高さと仕事の見つかる可能性を考えて、断念。
次に考えたのは、ドイツの首都・ベルリン。
ベルリンは、首都でありながら比較的物価も安く、多様性に寛容な国際都市。
そういった風土を背景に、各地からアーティストが多く集まり、感性も磨かれやすい環境が、デザインの勉強に良い影響を与えそうなこと、近年他国からのテクノロジー系企業の進出が盛んなことから海外で働く可能性を見つけやすいこと、地理的な観点からヨーロッパ各国へアクセスしやすいことなど、自身の求める条件に合致する要素を多く見つけたことで、
ドイツのワーキングホリデービザを取り、ベルリンに行きたいと考えるようになった。
退社から3ヶ月間、気分転換とエネルギーの充電を兼ねてスペインなどを旅行して回る。
その間、少し落ちついて将来のことを見つめ直し、
次のステップの準備の一つとして、自身の旅行ブログを立ち上げた。
申請していたワーキングホリデービザが通り、2015年9月にベルリンに渡って現地で就職活動を始めた。
海外で働く最初のステップをものにしていくため、まずは現地での就職先を決め、
ワーキングホリデービザの有効な1年間で、次のビザを更新してもらえるだけの結果を残したい。
そう意気込んでいたものの、現地で就活を始めてすぐは、苦戦が続いた。
将来的に自身のやりたいことにつながる旅行業界の企業、かつオンラインマーケティングの知見を得られる会社を探していた。
しかし、その2つの経験が当時の自分に欠けていたことやドイツ語を話せないことなどがネックとなり、最終面接まで進んでも、なかなか内定まで至らない状況が続く。
あらためて考えてみると、現地の企業にとって、わざわざドイツや他のヨーロッパ圏の人たちよりも、アジア人の自分を採用する必要性は薄まる。
そのぶん、日本で就職活動や転職活動をしていた時とは違い、何かを変えないと先には進めない。
そこで面接時のアプローチの仕方を変えることにした。
受け身で相手からの質問に答え続ける形ではなく、その時点で持っていた日本人という強みを活かし、自ら日本市場向けのマーケティングの企画を提案する形に切り替えた。
試行錯誤を繰り返し続けながらも、少しずつ手応えを感じ始め、
ベルリンに渡って3ヶ月後、ようやく思っていた条件に当てはまる旅行系スタートアップ企業の内定を得られた。
大学時代に思い描いていた進路を振り返ると、「(今の道は)予想してなかったし、まさかドイツに行くとは思ってなかったです。
以前は駐在か大学院へ行こうと考えていただけに、
自分で海外へ行って、現地で仕事を見つけて住むとは思っていなかったので、
人生何が起こるかわからないなと(笑)」
大学時代の自分には、ほとんど想像できなかった道のりとなったものの、結果的に思っていた生き方に近づいていた。
「ベルリンへ来た当時は『海外で働きたい』という目標だったので、一つの目標は達成したと思います。
次は『自分で何かやりたい』っていう気持ちがあったんですけど。
例えば、起業するっていう方法もありますし。でも、ただ単に“形だけ”起業するとかじゃなくて『それをやることで何を与えられるか』っていうことが大事だと思っています」
「例えば、企業内で何かを変えるっていうこともできるだろうし、
(並行して運営してる)ブログで人に良い考えとか情報とかを与えられたら、それでも一つ役に立てるかもしれないし、何か一つにこだわらなくていいかなと」
「これまで色んな人の働き方を見てきて、次の未来の『働き方』っていうテーマに興味があって、今いろいろ調べながら、アンテナ張ってるんですけど、そこって良い面と悪い面があると思ってて。
今後の働き方は変わっていくと思うんですけど、今発信されている情報って良い面の情報が多い。
そこの見えてない部分を知らずに良い面だけを見て飛び込むことがないよう、自分でも見極めていきたいと思ってて」
「だから、会社を辞めて独立することが(必ずしも)正解ではないし、
『それで自分が幸せなのか』とか『それでちゃんと人を幸せにできてるのか』っていうほうが大事だと思う」
今は、自身も様々な働き方の組み合わせを試行錯誤中。
将来も見据えて、現在働く会社では、入社時から週20時間勤務を選び、空いた時間を自身の運営する旅行ブログの取材や執筆、プログラミング学習などに充てる実験的な働き方に取り組んでいる。
それによって、成果を重視した働き方を考えられるようになり、また企業で働くだけではない働き方の模索に時間を当てることができた。
「やっぱり日本で働いているときに思ったのは、ずっと一つの同じ企業で働くとか、昇進して管理職になれば安泰だとか、『何か一つのタイトルに縛られやすい』空気があること」
「でも、今の自分の周りには、自由に生きてる人や自分で選択して生きてる人が多い。私と同じように何社か転職を経験してる人もいるし、同じ年代で海外へ行く人も沢山いる」
「そういうのを見てると、日本の場合、まだ一つの線でいく人が多いけれど、『もっといろんな道があっていいんだよ』ってことはすごく感じるところだから、そういった部分ももっと発信していきたい」と語る。
「去年は海外のスタートアップに入ったので、それで『話を聞きたい』っていう人から連絡をもらうことも増えたりして。
私自身の経験からも、海外で働く(チャンスを掴む)って大変だと思うし….。今働けてるのは、ちょっとラッキーだったなと思うんですけど」
「やっぱり海外で働くには、ゼロベースでは始められなくて。
どれだけ自分を売り込めるかも大事だし、語学力やスキルも大事だと感じています。
日本人で違う国で仕事をするには、『その国で求められる何か』かが無いといけなくて」
「もちろん“日本人”っていうアドバンテージを活かす仕事もあります。
例えば、日本食のレストランで働いたりとか、日系企業の駐在で働いたりとか。
でも、本当に枠は限られてるので、それだけじゃ足りない。もしそれ以外に切り拓きたいなら、何かスキルを持ってる必要があって」
「それは今、自分自身の課題でもあるんです。
今以上に自分の道を切り拓いていくには、やっぱりヨーロッパ出身者とか日本人とかだけじゃなくて他の国の人たちに負けないというか。
人と競争するんじゃなくて、『会社から必要とされる』『社会から必要とされる』モノを提供できるようになれば、その国に居続けられる可能性も高まると思ってます」
そのための新たな試みとして、今はプログラミングの勉強に取り組んでいる。
「まだまだ規模は小さいですが、(自らブログを作って運営してきた経験から)自分で何か『サービスを作る』っていうことにすごくハマって。
もちろん記事を書いて情報発信するのも好きなんですけど、もっと踏み込んで『何かモノを作れるようになりたい』と思って勉強し始めたのがきっかけで、今はプログラミングのスキルもあげようとしてます」
今働いている現地の旅行系スタートアップ企業では、日本の旅行市場向けのマーケティング担当として、
日本との企画・提携をリードし、会社にとっての新しい市場の開拓に貢献してきた。
自身の好きな旅行コンテンツを通じて日本とヨーロッパとを繋ぐことに価値を感じる一方で、感じていることがある。
「今の私は(日本人という強みを買われて)日本人マーケットに対して仕事をしていて。それも会社としては必要とされてるポジションなんですけど、
それだけになると自分の幅が狭まる。
もし自分に幅を利かせてもっと色々やりたいなら、他のポジションでも雇ってもらえるような、『欲しい』って言ってもらえるような何かがないと。
そういうことも(実際に現地で働いていく中で)肌で感じて、今は新しいスキルを身につけるための勉強をしています」
「今ベルリンに住んでいるインド人のエンジニアの友達は、需要の高いプログラミングのスキルを持っていたから、すぐ仕事も見つかったっていうのもあったし、
ほかにも韓国人の友達で(複数のスキルを持っていることで)複数のポジションでやれてる人もいる。
そういった友人たちを見ていて、求められるスキルを複数持っていれば、ビサも取りやすくなるかなと」
「もし現地の大学を出てて、ドイツ語とか英語とかをネイティブレベルで話せて、プラス何かあれば別なんですけど、
もし『もっと海外で何かしたい』っていう思いがあるのなら、(自分のスキルなどを通じて)何かを“与えられる”ことが重要だと感じています」
これまで何度も、思い描いた計画通りに進まないことを経験してきた。
そのたび、もともとの自分の原点に立ち返り、様々な方法にトライしながら軌道修正を繰り返し、自分の想いに向き合い続けながら歩んできた斎藤さん。
行き着いたベルリンでの経験を経て、以前よりも住む場所や働く場所の選択肢を柔軟に考えられるようになってきた。
この先、スペインやタイなど、他のヨーロッパやアジアの国々も頭の中にある。
だが、将来的にどこを拠点にすることになっても、自らの実体験を重ねていくことで学びを得て、
周囲に還元できるものを増やし続けることで道を切り拓いていく。
インタビュー中、これまでの生き方の選択は、両親の理解も大きいと語っていました。
「うちの父と母は普通な感じなんですけど(笑)
でも、両親に一番感謝してるのが、『こうしなさい』って言われたことはほとんどなくて。『勉強しなさい』って言われたこともなかったです。
多分、そういうふうに『〜しなさい』って言われたことがないから、今も勉強する体質はあるというか、好きなように…勉強が嫌にならずに済んだのかなと」
「大学を選ぶときも、母親は『薬剤師になったら』みたいに言ってたんですけど、それを押し付けることはなくて。
東京の大学へ送り出すのは、気持ち的に抵抗もあっただろうけど、反対はされなかったんです。
なので、(大学時代に)世界一周すると伝えたときも、『ちょっと不安だけど…』と言ってたけど、ダメって言われることはなくて」
「私の場合は色んな意味で両親も理解してくれていて、むしろ応援してくれてるっていうことにすごく感謝しています」
そんな両親の存在が、新しいことを学んでチャレンジし続ける斎藤さんの生き方を支えているのかもしれません。
(編集 / 撮影:87年会)