転勤の多い父親の仕事の関係で、幼い頃から様々な地を転々とする家庭環境の中で育つ。
その影響で小学校時代は転校を多く経験。
だが、自分の意見を活発に発言し、学級委員などのまとめ役に立候補するような性格だったため、転校先の学校に溶け込むのは早かった。
変化が起きたのは、中学1年の学園祭のとき。
自身の性格を活かし、学園祭準備のまとめ役を買って出たものの、準備中に放った自身の発言をきっかけに、クラスメートから反発を招いてしまう。
それ以降、積極的に発言することに怖さを覚え、“ありのままの自分”を発信することを避けるようになった。
気づけば自分らしさを失い、次第に「息苦しさ」や「窮屈さ」を感じ始めるように。
「環境を変え、なんとか今の状態から抜け出したい」と考えていたものの、家と学校の往復以外に新しい環境を見つけ出す術が思い浮かばない。
高校進学後も状況は変わらず、悶々とした毎日を送っていた。
高校2年の夏、卒業後の進路を考える一環で、早稲田大学のキャンパス見学に訪れたときのことだ。
キャンパス内を歩いていると、心赴くままに生き生きと時間を謳歌する大学生たちの姿が目に映った。
もちろん授業もあるが、時間の使い方もどんな人と付き合うかも自由。
その多様な生き方に触れたことで、狭まっていた視界が一気に開けた感じがした。
「ありのままの自分を表現できる、この場所へ行きたい」
そう決心してから、受験勉強に対する熱の入り方が変わった。
しかし、なかなか思ったように点数が伸びない。
その結果、2年間の受験勉強も虚しく、1回目の大学受験はことごとく失敗。
意中の大学に合格していく同級生を横目に、肩を落とした。
だが、時間が経つにつれ、
「やっぱり諦めきれない。どうしてもあの場所へ行きたい」という思いが沸々と湧いてくる。
浪人して、19歳の1年間をもう一度勉強に捧げようと心に決めた。
通っていた予備校も、第一志望の早稲田大学キャンパスのある高田馬場駅の学校に移し、心機一転、再び第一志望の大学を目指す。
そして迎えた2回目の大学受験。
結果は合格。
人よりも時間はかかったが、ようやく自分を変える入口へ辿りつくことができた。
1年遅れの入学となったものの、ありのままの自分を理解してくれる友達にも恵まれ、大学のキャンパスライフを満喫していた。
多い時には5つのサークルに所属したり、4つのバイトを掛け持ちしたりするなど、キャンパス内外の活動へ奔走。
ずっと溜め込んでいたエネルギーを余すことなく注ぎ込んだ。
その中で、最も注力していた学園祭の運営スタッフの活動を終えた大学2年の秋。
入学以来、「自分の知らない世界を知り、打ち込めることを見つけたい」と思って活動してきたが、自分の中で明確な答えは見つからないまま。
気がつけば、就職活動が翌年に迫り、次第に不安が押し寄せる。
頭の中には「社会に出ること」に対する漠然としたイメージはあるものの、自分自身が社会へ出て働く姿を想像できない。
「自分にはどんな働き方が合っているのか」
「働き方の選択肢を知りたい」
学園祭後、その答えを求め、ピンときた本を読み漁っていた。
そんなある日、価値観を変える1冊の本に巡り会う。
『マイクロソフトでは出会えなかった天職』
元マイクロソフト幹部のジョン・ウッド氏が、ネパールで子どもたちに本を届けたときの原体験を元に、NGO組織「ルーム・トゥ・リード(Room to Read)」を立ち上げ、世界各地の教育格差問題に挑むエピソードが綴られている。
その本を通じ、生まれ育った国の枠を超え、世界を舞台に、あらゆる国々の人々に貢献する働き方や選択肢があることを知った。
「自分も海外で何かしてみたい」
「日本以外の国を見てみたい」
心の中に湧き上がる高揚感を押さられない。
漠然と、ルーム・トゥ・リードのような世界各地に展開する国際団体や国連など、「社会起業家」や「社会貢献」などのキーワードに繋がる生き方や働き方に興味を持ち始めたのもその頃だ。
ジョン・ウッド氏の本を読んでから、気持ちは揺れていた。
「なにか足掛かりになることを」と模索していた中で、友人の立ち上げたカンボジアへ教師派遣を行うNPOへ行き着く。
そこでカンボジアの現状を広める活動に加わったものの、しばらくすると、“現場を一度も見ていない”自分が、現地のことを発信し続けることに対し、次第に違和感を覚えるように。
また、NPOの活動に「(今後も)ずっと関わり続けていきたいのか?」を自問自答することが増えていく。
自分の中で答えを出せないまま、なんとなく社会に出てしまうことを怖れていた。
「今持っている価値観だけでは、自分が『社会に出て何をしたいのか』『社会に対して何ができるのか』なんてわからない。
それであれば、時間のある学生のうちに、自分の目で世界の現場を確かめたい」
悩んだ末、選んだのは1年間の“休学”。
世界6ヶ国で行われる国際ボランティアへ参加し、できる限り多くの世界の現場を、直接見て回ろうと考えた。
各国の滞在期間は約1ヶ月前後。
東南アジアのタイやカンボジアなどでは教育に関する活動を経験し、アフリカのトーゴでは、現地の人々と一緒に下水道工事などのインフラ整備に携わる活動なども経験した。
また、各国の国際ボランティアの移動期間には、時間の許す限り、近くの国々や地域を見て回った。
最終的に合計22ヶ国を回り、様々な国々の人々と一緒に活動したり、日常生活に触れたりすることで、これまで自分の頭の中に無かったような多様な生き方や働き方を目の当たりにする。
「生き方や働き方の選択肢はひとつではない」
休学を選んだとき、周囲からは疑問の声も挙がった。
だが、直接世界の現場へ足を運んだ1年間は、自分の中に確信を抱く原体験となった。
帰国後、将来の働き方の選択肢として、海外就職を考え始める。
しかし、「調べても調べても、私の求めている現地で働く女性の声が見つからない……」という状況に直面。
自らの意志で現地に飛び込んで働き始めたり、駐在で移り住んで働いたりしている日本人女性たちは、どのように現地で暮らしたり、働いたりしているのか。
結婚・出産・子育てなど、女性特有のライフイベントとどのように向き合っているのか。
湧いてくる疑問に答えを出すための参考となる情報をほとんど見つけられないまま、時間だけが過ぎていく。
「情報がないからといって、日本で悩んでいるだけでは悔しい。このまま諦めたくない。調べても見つからないなら、海外で働く日本人女性のもとへ直接話を聞きに行こう」と思い立つ。
就活を中断し、以前に国際ボランティアで訪れた際に好きになったカンボジアへ渡った。
現地で働く女性たちから話を聞いたり、働く様子を見せてもらったりする中で、現地で働く女性たちは皆、日本で働いた際に身につけた経験やスキルを活かして働いていることが分かった。
現状、自分自身の経験やスキルなどを考慮すると、現地で貢献できることは何もない。
一度日本で働く道へ進み、必要な経験やスキルを身につけた上で、いつか海外で働こうという考えに落ち着いていく。
直接話を聞きに行ったことで、自分の現在地を知り、足りないことが見えた。
それによって、進むべき方向性が定まり、モヤモヤした気持ちが吹っ切れたことが一番の収穫だった。
その一方で、日本に帰国すると再び海外の情報を得にくい状況へ戻ってしまう。
また、日常的に情報を得ることができないと、時間が経つに連れ、海外で働くイメージが遠のいてしまうのではないか。
そんな不安を打ち消すために、
「情報がないなら、自分で作ろう」と考えた。
当時のターゲットは“自分自身”。
誰よりも(自分自身が)海外で働く女性のリアルな情報を求めていたからこそ、「現地へ足を運んで取材を行う」ことをモットーとした。
加えて、「今後は、今の自分のように海外で働きたいと思う女性もどんどん増えてくるはず。そう考えたときに、自分が就活中に知りたかったような情報を発信できたら、誰かのためになるかもしれない」と考え、取材内容をインタビュー記事として発信する構想へ行き着く。
構想が固まってくると、夢中で企画書を作り始め、友人や知人など30名以上に意見を聞いて回った。
フィードバックをもらい、ブラッシュアップを重ねていくうちに、「やらずにはいられない」という思いが湧いてくる。
その思いが、海外で働く日本人女性のインタビューサイト「なでしこVoice」を立ち上げる原動力となった。
半年後、大学を卒業し、国内の事業会社へ就職。
環境の変化はあったものの、仕事と並行して定期的に週末を活用して現地へ足を運び、インタビュー取材に駆け回る。
なでしこVoiceを始めてから1年ほどが過ぎたある日、思わぬ事件の知らせを耳にする。
2012年8月20日、なでしこVoiceの立ち上げ初期にインタビューした女性ジャーナリスト・山本美香さんが、中東・シリアで亡くなったという知らせだった。
中東などの紛争地に自ら足を運び、熱心な取材活動をしていた山本さん。
その一方で、自身で綴った取材体験記が書籍化されている以外、インタビュー記事などはほとんど残っていない。
奇しくも亡くなった年の初めに公開したなでしこVoiceのインタビューが、山本さんの最後の声となった。
インタビュー以降、「発信に命をかける山本さんのような生き方をしたい」と思っていただけに、唐突に亡くなったことへのショックを隠せない。
「本当にやりたことがあるなら、せっかくの時間や命を無駄にしないでその道に突き進むべきじゃないか」
その出来事が、「発信者」としての活動に注力したいと決意する転機となった。
当時は、入社後半年が経ち、先輩や上司にも恵まれ、ようやく仕事への充実感を感じ始めていた頃。
それでも、本当にやりたいことを見つめた結果、入社ちょうど1年で会社を退職することを決意。
その時点で次の仕事は決まっておらず、退社後に発信力を磨く仕事を探すつもりだった。
ただ、常々自分の進みたい方向性を周囲に口にしていたことで、退社目前、知り合いづてに編集事務所のアシスタントとして働くチャンスが舞い込む。
絶好の機会を活かし、ライティング・編集などのスキルを磨こうと意気込んで働き始めるも、さすがに本格的なプロの仕事となると甘くない。
プロとしての仕事をする上司の後ろ姿を見ながら、なかなか思うようにいかず、何度も落ち込む経験や歯がゆい思いを繰り返す。
その度に、山本さんの事件で心に誓ったことを支えに、なんとか乗り越えた。
編集事務所で働き始めてしばらく経ち、編集やライティングの仕事を一通り経験したことで、ようやく気持ちの中で少し余裕を持てるようになってきた。
そんなある日、一通のメッセージが届く。
「『アブローダーズ』という、アジアで働く人を応援するメディアを作りたい。はままりさん、協力してもらえませんか?」
送り主は、発起人の社長。
キッカケを作ってくれたのは、新卒入社した会社でお世話になり、憧れていた先輩。
退社した後も、なでしこVoiceの活動を気に掛けてくれていた。
「あとで聞いた話なんですけど……先輩が転職活動をしているとき、『今後、アジアで働く日本人を応援するメディアを作りたい』っていう話を、発起人の社長から聞いたそうなんです。
『それなら、以前一緒に働いていた後輩が、それに近い活動をしてますよ』と言って紹介してくれたことが、アブローダーズの話へ繋がるキッカケになりました」
アジアなど、海外で働くことに興味のある人へ必要な情報を届けることは、実体験を通じて、必要性を強く感じてきたテーマ。
それゆえ、いきなりの申し出だったが、即決で話を引き受けることを決心。
海外で働く日本人を応援する情報サイト・アブローダーズ(ABROADERS)の立ち上げに参画することになった。
以来、編集長として、アジア各地を飛び回り、取材や企画に奔走する日々を続けている。
「私のやってることって、まさにアブローダーズそのもの」
休日であっても自然と企画のアイデアが湧いてきたり、寝る前に新しい案を思いついて寝つけなくなったりするほど、自分の向かいたい方向性と仕事の方向性が一致している。
「アジアとかの多様性のある働き方に興味をもつ人たちへ『海外』っていう“視点”を渡したい」
当事者意識を強く持って取り組めるテーマだからこそ、 立ち上げから3年近く経った今も、その熱量は衰えない。
2011年6月のなでしこVoice立ち上げ以来、アブローダーズも含め、延べ40ヶ国700名に及ぶ 海外で働く日本人の生き方や働き方を取材・発信してきた。
地道な発信活動が実を結び始め、前向きな変化を起こしたり、殻を破ってステップアップしたりというような知らせを(読者の人たちから)もらう機会が増えた。
自分の関わる活動が、少しずつ、他人の人生に影響を与えていることに嬉しさを感じる反面、新たな壁にぶつかっていた。
「今後どうすれば、社会に対して、より大きなインパクトを与える活動にしていけるのか?」
日々考え続ける中で、浮かんできた答えは「組織の力を貸りること」だった。
「私自身、これまで(個人の活動を中心に)やってきて、
どこかで『行き詰まり感』を感じることがあったんですね。
『ひとりでできることって限られている』って考えたら、うまく自分の動ける組織へ入ってリソースを使わせてもらう、一緒にやってもらうっていうことができるのは、素晴らしいことだと思って。
そして、一から何か作るよりも、やっぱりこっちのほうが早いんですよね」
「これまでは『私がこれをやりたい』っていう、どちらかというと『個人の思い』のほうが強かった。その中に『誰かのために』っていう思いもあったから、色んな人に応援してもらえたんだと思っています。
でも、私自身、また次のフェーズにいきたいなと。今はもう少し視野が広がって、『組織の中で、いかに社会に対してインパクトを与える活動を実現していくか』を模索している段階です」
そうした心境の変化を経て、立ち上げ当初からフリーランスとして関わっていた(アブローダーズの)運営会社へ社員として深く関わっていくことを選択する。
社会人になって以降、組織の力を貸りて事業を加速させるチャレンジは初めての経験。
その分、まだまだ手探りで、うまくいかないことも多い。
それでも「組織の中でやっているうちに、少しずつ自分のやっていることの“影響力”が広がっていく。そこに楽しさを感じています」と話すように、新しい壁を超えるべく、一歩ずつ前へ進もうとしている。
「私の人生のテーマは、『多様性』なんです。例えばアジアだと、マレーシアとかシンガポールとかのように、『色んな国の人が混ぜこぜになって生きている』っていうのは、女性にとっても優しい社会なんですよね」
多様性に寛容な社会は、女性に生き方や働き方の選択肢を増やしてくれる。
現在取り組んでいる、なでしこVoiceやアブローダーズなども、多様な生き方を追求する自身のテーマに紐付いている。
しかしながら、多くの国々に足を運んできた経験から、まだまだ世界には、女性の生き方や選択肢が限られている国や地域がたくさん残っていると実感している。
国や文化は違えど、 家庭の中で、そして社会の中で、女性の担う役割の大きさは世界共通だ。
女性一人ひとりの生き方はもちろん、「子ども」という“未来への投資”には女性の存在が欠かせない。
自身の女性としての原体験、そして多くの女性の生き方を取材・発信してきたからこそ、将来的には「“教育者”として、女子教育の側面から世界と関わっていきたい」と考えている。
「でも、自分が何もやっていなかったりとか、自分が経験してないこととかを伝えるって難しいじゃないですか。
だから、自分で色んな経験をして、最後の最後に教育に関われればいいなと思ってるんです」
誰しも人生は一度きり。
自ら「ここまで」という線を引かず、いろんな経験をし、時には苦しい思いをしながらも、自分の手で作っていくからこそ人生は面白い。
そして何より、自信を持って相手に伝えられると信じている。
「今の時代、ロールモデルなんてあってないようなもの。だからこそ、自分自身で切り拓かないと」
そう力強く話す濵田さんの挑戦は続く。
撮影協力: 喜久里 周(Kikuzato Syu)
「出張撮影フォトアーツ」 代表 / カメラマン
1987.8.3生。
学生時代、吹奏楽のステージで撮影された自分の写真がきっかけとなり、大学卒業後に写真を本格的に学び始める。
独学での作品撮影、婚礼撮影会社でのウェディングフォトの撮影経験を経て、2014年より「出張撮影フォトアーツ」を開業。フリーランスとしての活動を本格的に始める。