アフリカ滞在から帰国した2人の同世代が語る、「これからやっていきたいこと」とは?—(2/3)

2015年7月8日



−−−−−『同世代の経験・体験・生き方をシェアすることを通じ、自分自身が「これからどんなふうに生きていくか?」を考える&つくっていくキッカケに。』
というテーマのもと、【87×HOTな話】と題して、海外滞在から帰国した直後の同世代2人に現地での経験談を聞く座談会を開催しました!

この記事は3部構成でお届けしています。
⇒前回の記事「そもそも海外に行こうと思ったキッカケ・経緯とは?」こちら

 

現地での活動内容・失敗談・実体験から得たこと・肌で感じたこととは?

 

渡航早々感じた現実と無力感。「この状況で自分になにができるのか?」


−−−−−そんな中で活動していって。転機というか、失敗した経験を聞いていきたいなと思うんですが・・・次のスライドですね。

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大山:この写真なんですけど、この患者さん、見た感じガリガリで、ヤバいなって感じがあるんですが。

キッカケとしては、僕がマラウィにいってから、まだ2ヶ月目ぐらいのときぐらいですかね。まだ右も左もわからないときに、医者と一緒に自宅療養してる患者のところに行ったんです。

「自宅療養してる患者がいるから一緒に来いよ」って言われて。お前の意見聞きたいから、一緒に来てくれと。
「いや、オレ医者じゃねぇし(笑)」と思いながら一緒についていくと出てきたのがこの患者さん。

いろいろ症状を聞いていくと、HIVは陽性。それと、感染力の強い結核。日本じゃほとんどないけど、結核を患ってて、食べ物もほとんど食べられず、話すのもやっと。

HIVと結核を患って、肺の呼吸器もダメ、呼吸器もダメ、筋力ももちろんこの通りなので、もう歩けないし。
それで(栄養士の視点から)「アドバイスくれ」って言われて。

「ご飯食べられる?」って聞いても、全然食べられなくて、もうスプーン2杯分ぐらいしか食べれなくて。
「これ、自分に何ができるかな」と思って。現地に行って2ヶ月目で、こんな患者が目の前に現れて。

結核も患ってて、「病院に入院できません」って感じで自宅療養になってたんですが。
それがキッカケで医者と一緒に同行するようになり。

見ての通り、アセスメントといって患者の情報をとることぐらいしかできず。
旦那さんと奥さんと子供の4人家族だったんですね。奥さんは旦那さんをつきっきりで看病。子供たちも一番上で小学校4年生ぐらいで、全然働けるレベルじゃない。奥さんも畑もできず、収入が途絶えてるんですよ。

そんな状況の中で「自分になにができるのか?」と考えたときに、
失敗例というか、うまく言葉にできないんですけど。

「この中で自分が何ができるのか?」って思ったときに。
一週間に2〜3回ぐらい、様子をみにいくことしかできず、結局初めて訪問した日から1週間〜2週間ぐらいして、医者から「亡くなった」っていう話を聞いて。

現地の人は、外国人が来たら何かしら治療してくれると思うんですよ。お薬と沢山くれるんでしょ?助けに来てくれたんでしょ?っと。でも、実際僕らはボランティアなので、お金をあげることはできない。この人にお金を挙げ始めるとキリがない。自腹きるしかない。それはできないし・・・
ただ一緒にいることしかできなくて、奥さんに「ごめんなさい」といったんですね。

そのとき奥さんから言われた言葉が「むしろ逆にありがとう。あなたは毎日毎日、一週間に何回も私たちに会いに来てくれました。私たちと一緒に話してくれました。本当にありがとう。」と。

そのとき本当に思ったのが、「人と接する時間」ってすごく大事なんだなと思ったんですね。日本だったら、電話とかメールでも済むと思うんですけど。
「面と向かって話すこと」って、すごく大事なことなんだと。それからですね、自分が変わったキッカケをその人からもらったのは。

居たマラウィでも、「いかに人と会う」に重きを置いてきたし。
もちろん日本に帰ってきてからも。呼ばれたら絶対行くし、自分から連絡するし、直接会うということに重みを置いてるんですよ。

で、東京も北海道からちょっと遠いですけど、飛行機で東京出てきたときも、直接連絡して会うってことを大事にするようになりました。
それもあって北海道から出てきて、「直接連絡してあうってことを大事にすることになりました」


−−−−−写真の患者さんも体重40キロ弱まで痩せてしまっていたぐらい、いわゆる生と死の間を経験している人を目の前にして、無力感で「自分何もできないな」と思って。結果的にその患者さんが亡くなってしまって。そのあと、奥さんから「ありがとう」って言われて。きっと「人と人のつながりを大切にしていく」っていうのを、この経験やキッカケから学んだという話でしたね。

やっぱり、こういったデジタル社会だからこそ、日本とは真逆の環境で受けた衝撃的な話も含めて、ありがとうございました。
 

現地に行くと、僕らは「よそ者」。現地に根付いたものを活かす関わり方を知る


−−−−−では、次は横山くんのほうから、現地での活動と転機になった経験などを話してもらいます。

横山:はい。みなさん、まず、これどこだと思いますか?

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これは僕の住んでた村というか町なんですけど。ご存知の通り「ロバ」です(笑)
この場所は川です。

僕はアフリカの中でもケニアという国に住んでいました。その中でもマクエニという、首都から5時間ぐらい離れた村に暮らしてまして。このように乾燥地帯なので、川はあれど、水はない。基本的に、このロバ使いの人たちが、川底から水をとってきてくれた水を飲んで僕たちは生活していました。現地の僕の家は水もなければ、電気はかろうじであったんですけど。そういう地域に住んでいました。


−−−−−現地ではどんな活動をやってたんですか?

横山:具体的になにをケニアでやってたかというと、あまり聞き慣れないかもしれないですけど、村落開発普及員という職種があって、その仕事でケニアに行きました。

マイクロファイナンスといって、農村部の人たちに少額でお金を貸しましょうっていう仕事でいったんですが・・・現実問題、そこまでいきません、というのも「お金貸しても、返せない」ということが分かってきて。

そこで見えてきた課題はなにかというと、お金は貸せるんです。ただマイクロファイナンスで3ヶ月〜半年、長くても1年ぐらいのスキームでお金を返してもらうんですけど。貸したはいいけど、返済期間になって地域の人たちから集めたお金を“とりあえず返してる”っていう、行き当たりばったりの現状しかないんですね。

そこで僕が何を考えたかというと、まず、「お金を作るために何ができるのか?」「お金を回すために何が必要か?」ということを思って。お金を貸す前に。僕は金融機関出身なのであれなんですけど、ものづくりをやってました。

この写真見てもらったら分かると思うんですけど、バックとか、こういったコースターとか。現地の人は作れなくもない。

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もともとバックとかは現地で伝統的に作ってきた経緯もあって。
最近は中国から安い革バックとかがケニア入ってきて、残念ながら売れない。それによって、だんだん現地の文化も廃れつつあるという状況も見て、「どうしたら売れるか?」っていう視点でマーケティング支援をするようになったっていうのが、僕の主な活動ですね。


−−−−−いわゆる「お金を貸しても返せないから、だったらお金を生み出そう」と思ったとき、なぜバッグを作ろうと思ったんですか?

横山:結局僕らは日本人で、ケニアの人からすると「よそ者」なんですね。

そこに対して、何か新しいものを提案するんではなく、もともと地元に根付いたものを活かすにはどうしたらいいか?っていう発想が大事なんじゃないかなと思うんです。それは日本の地域活性化にも同じことが言えると思うんですけど。

もともと向こうでは、バスケットを編む文化が現地には根付いている。では「これを売れるようにするためにはどうしたらいいか?」っていうところに、いわゆる僕らのような外国人の発想が活きてくるんですね。たとえば、バックの底の部分ありますよね。底の部分をコースターにできないか?とか、鍋敷きにできないか?っていうことですよね。

「新しいものをどうするか?」ではなく、「彼女たちが持っている技術をどう活かすか?」という発想です。


−−−−−このバックは実際に販売しているんですか?

横山:はい。「amber hour」というオンラインショップとか、学生時代に立ち上げて、今も仲間とやっている「FABLIC」ってう、ちっちゃなNPOとかで。いろいろと日本でも名古屋の美容院とかとコラボレーションして。いろんなところで販売経路を作っています。


−−−−−完全なるメイドインケニアのブランドで?

横山:そうですね、メイドインケニアですね。
⇒次回、「2人が考える「未来へのアクション」とは?」に続きます

1175283_568521886517960_1302187898_n横山 裕司(あだ名:凡)

香川県高松市出身の87世代。
大学在学中は、国際支援団体「FAVLIC」を立ち上げたり、カンボジアへのスタディーツアー企画などを通じて、途上国と日本を繋ぐ活動を行う。
新卒で大手証券会社に入社すると同時に、上京。その後、青年海外協力隊でアフリカ・ケニアに渡る。赴任中にケニアのサイザル(現地素材)を用いた事業を行う会社「amber hour」を立ち上げ、現在に至る。今春4月帰国。
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oyama大山 達也(あだ名:たっつん)

北海道釧路市出身の87世代。
大学時代に栄養学を学び、卒業後は関東(神奈川)で管理栄養士として働く。
その後、人生のテーマの「食を通して世界を知る」ための一歩として、
2013年から青年海外協力隊の栄養士という形で、アフリカ・マラウイ共和国に赴任。今春3月に帰国。
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