#18 田邊 茜さん

2018年8月31日



田邊 茜さん。
1987年度生まれ。東京都出身。
 
87年度生まれの同い年の生き方を知る87インタビュー。
 
18回目の今回は、
 
大学卒業後、中高一貫校の教員としてクラス担任や教科担任などを経験し、2017年3月に退職。
その後、オーストラリアへの留学を経て今春帰国し、次のステップへ進む田邊さんです。
 
教員になる前の、転機となった「出会い」とは。
 
大変さを感じつつも充実していた教員生活を離れ、
新たなステップへ進む選択をした背景にはどんな”きっかけ”があったのか。
 
留学によって得られた気づきを踏まえ、今思い描いていることとは。
 
帰国後、新しいチャレンジを始めている田邊さんに、
自身の生き方を形づくった「原体験」と、今考えている「これからの生き方」を聞いてきました。
 
 
 

そのときは「先生になりたい」ってことしか、見えてなかった


「(教員には)高校生ぐらいからなりたかったかな」 
 
そう振り返るように、高校時代から少しずつ教員の進路へ進むことを意識し始めていた。 
 
しかし、大学入学直後は、受験勉強の反動で”燃え尽き症候群”気味になり、しばらく将来のことは考えずに過ごす日々が続く。 
 
漠然と「4年間遊んで、OLになろう」と軽い感じで考えていた。 
 
また、高校時代の部活のような”打ち込めるもの”がなくなったことで、 
大学入学後、しばらくの間は無気力な感覚もあった。 
 
「でも、2年の終わりにちゃんと将来を考えたときに『やっぱりOLになりたくないな。先生になりたい』って思って、3年から教職を取り始めて」 
 
ただ、教職課程の授業を取り始めるのが遅れたことで、教員免許の取得も1年遅れることになった。 
 
「教員免許を取れない1年間は、科目履修生として大学に行くしかないから、『何かアルバイトとかしながら履修するしかないな』って思ってて。 
(もしアルバイトするなら)塾の講師とかかなって思ってました」 
 
そんなある日、何気なく携帯で就活のサイトを見ていると、私立教員の合同採用説明会があることを知る。 
 
ただ、その説明会の開催日は、サークルの大事な大会の予選と重なっていた。 
 
開催時間内に間に合うかどうか分からないので、「どうしよう?」と迷ったものの、 
 
予選通過が確定すると、大急ぎでサークルの大会から抜け出し、電車を乗り継いで、会場の東京ビッグサイトへ飛び込んだ。 
 
なんとかギリギリ間に合ったものの、残り時間は30分しかない。 
そこで、自分の中で、探す学校のイメージをざっくり絞ることにした。 
 
有名な学校だと競争が激しそうだから、自信がない。 
それであれば、通いやすい場所にあって、人気の集中していない学校を選ぼうと考えた。 
 
そんなイメージを描きつつ、しばらく会場内のブースを見回しながら歩いていると、ある中高一貫校が目に留まった。 
 
ブースに入り、大急ぎで電車の中で書いた履歴書を出して一次面接に臨む。 
 
面接が始まってしばらくすると、恐る恐る担当者に気になっていることを尋ねてみた。 
 
「教員免許ないんですけど、アルバイトって雇ってますか?」 
 
すると、「(たまたま、その学校自体が)ちょうど伸びてきてる時期だったので、『今までそういうポジションなかったけど、じゃあ今回アルバイトで雇ってみようか』って感じで、なんとか雇ってもらえて」 
 
アルバイト枠での採用だったものの、少し教員に近づいたことで、 
それまで以上に気持ちの面でも集中力が高まった。 
 
「大学4年生のときは、結構頑張ってたと思います。(大学の)最後の一年は、単位を『取れるだけ取って』って感じだったから」 
 
「そのときは『先生になりたい』ってことしか見えてなかったなぁ」 
 
大学卒業後も、週に2〜3日は足りない単位を取りに大学へ行って授業を受け、授業のない日は朝〜夕方まで、アルバイトとして働くという生活になった。
 
 

「お金のためじゃなくて、いつも自分のやりたいことに向かってる」ーー 転機をくれた生物の先生との出会い


アルバイトとして採用されたポジションは、主に化学などの理系科目の「実験助手」。 
授業前後の実験の準備や後片付けなどをしたり、実験器具の管理や発注などを行ったりする業務を担当することになった。
 
また、普段の作業場所は職員室ではなく、授業の実験や研究などに使われるラボスペースだった。
 
毎日そこで実験の準備などの作業していると、前年度に赴任してきた生物の先生と顔を合わせる機会が増えた。 
 
「1年目に私、ずっとラボにいて。その先生も職員室に机はあるんだけど、けっこうラボにもいて(一緒な場所で作業することも多かった)。だから、自然と話す機会も増えていったんです」 
 
当時、その生物の先生は、担任を持ち、授業の準備もする傍ら、翌年度から新設される学科・コースの責任者として、設立準備にも奔走していた。 
 
ある日、その生物の先生に赴任してきた当時の状況を尋ねると、当時の学校のラボは、実験器具も設備も全く揃っていない”ゼロからのスタートだった”という話をしてくれた。 
 
「(当時、学校が)廃校になりそうな状況から共学化して、(再建を図ろうとしていた時期に)その生物の先生が入って来て。 
あまりの何もなさに驚いて、『これじゃあ、ダメだ』って思ったそうなんです。 
それで、『まず、ちゃんとした理科教育ができるように基礎的な実験器具とか設備とかを揃えないといけない』って思って、(実験器具や設備などを購入するために)国からお金をもらえるように色々準備や申請とかをして。 
そうやって動いていくうちに、やっと顕微鏡とか理科で使うための実験器具とかが揃い始めて』っていう、当時の状況の話を聞かせてくれたこともありました」 
 
実験助手のアルバイトとして入った当初は、まだラボの設備を整えている途中だったが、 
その先生が情熱をもって取り組んできたことで、(ほとんど何もないところから)一歩ずつ状況が変わってきたことがわかった。 
 
そのほかにも「(その生物の先生は)いつも『最先端のことをやりたい』って話していました。
 
例えば、ES細胞をどこかの大学から取り入れて、実際に培養できる環境も整えて。私が入った時には、ちょうどその培養を始めた時期だったんです。 
でも、その先生も忙しいから、『(ES細胞の)培養を手伝ってほしい。細胞だから、毎日世話してやらないといけない。お願いできないかな』って言われて。 
 
『私、全然分からないですけど、教えられたことを繰り返すのは得意です』って答えて、手伝い始めて(笑) 
それをきっかけに仲良くなって、生物の話もしてくれるようになったんです。 
それで、いろんな話を聞いた中でも特に(培養を手伝っていた)ES細胞の話がすごく面白くって。 
誰もがこれを聞いたら”面白い”と思うような、ES細胞の移植の話とか。そこから入ったから、すぐ生物にのめり込めたんです」と語る。
 
「もともと生物が好きな訳ではなかったし、高1からほとんど勉強してなかったから、むしろ”知識ゼロ”の状態だった」ものの、 
その先生の影響で、生物という科目に対するイメージがガラリと変わった。 
 
「もともとアルバイトとして採用された時は、化学の実験助手として入ったんですけど、アルバイトの間にその生物の先生に出会って、『生物って、おもしろい!』てなって。 
その時期に先生が『じゃあ、生物の先生になれば?』ってポロッと言ったのをきっかけに、生物の先生を目指すことを決めて。それからは生徒たちの後ろで一緒に生物の授業を受けてましたね(笑) 
採用試験もロープレも全部生物でやって、結果的にその次の年から、生物の専任教員になれたんです」 
 
また、その生物の先生が、”先生として戻ってきた経緯”にも影響を受けた。 
 
「その先生は最初に教員になった後、一度辞めて起業して。 
経営はうまく軌道に乗っていたけど・・・でもやっぱり教育でやりたいことがあって、教員として戻ってきた先生で、すごく素直に生きてる人でした。 
 
『理系で日本を盛り上げたい』ってう思いがある人で、私が入った次の年に理系教育の新しいコースを立ち上げて。 
そういう『お金のためじゃなくて、いつも自分のやりたいことに向かってやってる』先生だったんです。 
だから、何を聞いてもすごく面白くて」 
 
「その時は、そうだと思ってなかったけど、今思うと『自分が面白いって思ったことを、素直に面白い』って言える人って、飾らなくて素敵だなと。 
実際の授業も本当に楽しい授業で、雑談も面白いし。いつも『生物ってすごく楽しいよ!』って言ってくれて、私も毎回の授業がものすごくに楽しみで。 
その先生に出会った時は『こんなに頭の回転が速くて、話すのが上手い人に会ったことがない』って思った気がします。 
 
そして、なにより『人の気持ちが、すごくわかる人』で」 
 
それらを含めて、「『人を魅了する力』のある先生だった」と振り返る。 
 
そんな生物の先生との出会いが、一つの大きな転機となった。
 
 

「この子たちを本気で大事に育てなきゃ」ーー クラス担任の初日に芽生えた責任感

 
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当時勤めていた中高一貫校の学科には、本科コース、医進・サイエンスコースに加え、多様な国籍の生徒が一緒に学ぶインターナショナルコースが設置されていた。  
 
アルバイト期間を経て、生物専任の教員になると同時に、最初の年度は本科のクラスの副担任となった。 
 
そのすぐ翌年、校内の人事異動でインターナショナルコースへ移り、最初の2年間を副担任として過ごす。
 
「外国人の担任の先生にいつもついて教室に行ったり、三者面談とか、ずっと一緒に入ってて」 
 
副担任として2年間の準備期間を過ごした後、担任として高校1年生のクラスを持つ機会が巡ってきた。 
 
初めて担任を受け持つクラスの生徒は18名。 
 
「新学期が始まって、すぐ4月の2週目ぐらいに(担任を受け持つクラスの生徒たちと)初めて会って。 
そのときのことが、すごく記憶に残ってるんです」 
 
「初めての担任で、ほとんど知らない子たちで、パッて教室に入ったときに生徒たちの目が、すごくキラキラしてたのを覚えてて。 
それを見たときに、本当に泣きそうになったんです。
 
強烈な責任感を感じて、
 
『この子たちを本気で大事に育てなきゃ』って思った感覚は、今でもはっきりと覚えてて」
 
その感覚は、前年までの副担任とは全く違うものだった。 
 
「担任と副担任は責任感が全然違う。入学式の初日に(生徒の保護者たちも)同じ教室にいて、みんな子供たちや学校に期待してるのも凄く伝わってきたし。
 
あと、やっぱり純粋でしたね、生徒の目が。『これから始まる高校3年間』に期待を膨らませていることがハッキリと伝わってきました」 
 
その一方で、「私はとにかく自信がなかったから、余計に緊張して、『やばい!初めての担任で、こんな純粋で真っ直ぐな生徒たちの担任になっちゃったぞ』って思って、心の中で焦ったのも覚えています(笑)」 
 
副担任をしていた前年までは、どちらかというと、「受け持っていた生物の授業をどうにかわかりやすく、面白く、偏差値をどう伸ばすとか、そこに集中してて」と振り返るように、授業に対する気持ちの比重のほうが大きかった。 
しかし、担任になったことで、自分の中の気持ちの比重が(クラスの生徒たちのほうへ)大きく傾いた。
 
「その日から2週間後に、生徒たち一人ひとりと将来について話す機会があって、それが不思議なぐらい感動したっていうか、またすごく泣きそうになったんです。
 
『こんなに目を輝かせて、未来を楽しみにしてる子供たちが目の前にいるんだ』っていうのを、また強く思って。
 
『この子たちのこの未来を広げてあげなきゃ』とか『どうにか(将来へ)繋げなきゃ』とかっていう思いは、そのとき一段と強くなった気がします」
 
 

いつも「やるしかない」って考えてた


担任として新鮮な気持ちを感じていた一方、 
 
アルバイトを経て、教員として副担任や担任を持った6年間は、本科コースの生物も教えていたため、担任の仕事だけでなく、毎日授業の準備にも追われていた。 
 
「当時は正直、結構辛く感じることもありましたね。授業の数と種類がすごく多くて…週20コマぐらい、4学年に教えていて」 
 
どうしても準備の追いつかない日は、憂鬱さを感じつつも「(授業をするクラスへ)行けばなんとかなる。なんとかするしかないから」と自分に言い聞かせていた。 
 
生徒たちのためになる内容を目指して授業を作る一方で、間に合わせることにも必死な状況が続いたことで、当時は毎日の疲労感も大きかった。 
 
また、高2のはじめ頃から様々な問題が生じて、担任として「とにかく大変な時期があって…」と振り返る。
 
「どうしても”大変なこと”のほうに目がいっちゃって、もっとサポートしたりできた子もいたかもしれない」と話すように、 
目の前のことで”一杯いっぱい”になってしまい、自分の至らなさに悔いを感じるときもあった。 
 
また、保護者と毎日メールや電話でやり取りを重ねることもあった。 
それ以外にも、なかなか解決策を見つけ出せず、クラスの卒業までずっと向き合い続ける問題もあった。 
 
そういった自分でコントロールできない状況が続いても、いつも心の中で思っていたことがある。 
 
「もっと要領の良い先生なら、もっとうまくやるんだろうなって考えてたけど、 
いつも『やるしかない』って考えてました。 
目の前に生徒も保護者もいるからこそ、後回しにできる仕事じゃないって思って」 
 
 

「生徒と一緒に作り上げていく」ーー 担任の仕事に感じた”やりがい”

 
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あらゆる教員の業務の中でも、クラスの一人ひとりの生徒の進路や将来などを一緒に考える「キャリア形成の仕事が一番楽しかった」と語る。 
 
自身の受け持っていたインターナショナルコースのクラスは、(課外活動や志望理由など、勉強の成績以外の要素も重視される)AO入試や海外の大学などを受験する生徒がほとんどだった。 
そのため、勉強の成績だけでなく、「将来に自分がなにをやりたいか?」や「どんな学部で、どんな内容を学びたいか?」などを、入学当初から考えていく必要性も高かった。 
 
しかし、高校入学の時点で、既に「やりたいことを見つけている」生徒だけではない。 
むしろ、「やりたいことが見つかっていない」生徒のほうが大半だ。 
 
そのような背景から、クラスの生徒と面談や体験などを重ねていき、一緒になって一人ひとりの将来のキャリアを考えていった。 
 
「生徒一人ひとりと、面談を1〜2ヶ月に1回はやっていましたね。時期によっては1ヶ月に2〜3回のときもあったと思います」 
 
「その時はもう必死でしたね。
 
『生徒たちに何か(将来に繋がる)機会を提供しなきゃ』って思って、ボランティアやインターンとかを見つけて紹介したり、その受け入れ先の担当者のところへ行って一緒に説明を聞いたりとか。
 
もちろん学校側も責任があるので、(生徒1人で行かせるのではなく)私も一緒に行って。
例えば、インドネシアの村にホームステイしたり、孤児院やストリートチルドレンの施設等を訪れるプログラムに一緒に参加したりとか。
 
前の学年の生徒もやっていて、自分のクラスの生徒の経験になりそうなコンテストや大会などがあれば、生徒にも伝えて。
 
『こういうのやったら、どうかな』っていうのをいっぱいボード(掲示板)に貼って、興味あるものがあったら(生徒から)すぐ言ってもらうようにしてて。 
『締め切りはここだけど、誰かやりたい人いない?』っていう感じでしょっちゅう宣伝してましたね」 
 
「気づいたら(一人ひとりの生徒の志望理由書が)出来上がっていて。 
その過程で、自分が何か紹介したことをきっかけに大学で勉強したいことが決まった子もいたし、書けることもできていった」 
生徒が3年間かけて経験したことが繋ぎ合わさっていくことで「一つのストーリーが作り上げられていく過程が、すごく面白かった」と語る。 
 
そして、その過程で生徒が変わっていく姿を目の当たりにすることで、 
生徒と一緒になって将来のビジョンを考えていく担任の仕事に、大きな“やりがい”を感じるようになっていった。 
 
 

「もっと選択肢が増えたら、この子たちの能力はもっと生きるんじゃないかな」

 
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担任を持ったクラスもいよいよ高校3年生になり、受験や卒業を控える時期になった頃、心の中で一つ決断したことがあった。 
 
受け持っているクラスの生徒たちが卒業したら、アルバイト時代を含めて7年間働いた教育現場の仕事を離れ、一度、海外へ留学しようと考えていたのだ。 
 
きっかけの一つは「担任として3年間、一緒に過ごしてたインターナショナルコースの生徒たちの発想力や考え方の違いを感じて。 
あと、インターナショナルコースの職員室にいる教員の8割が外国人の先生だったから、いろんな面で、日本人と観点が違ったりするところがすごく面白いなって思ったんです。 
それで『日本以外の場所に住んでみて、違う文化を知りたいな』って思うようになった」ことだった。 
 
そして、それ以上に大きかったきっかけは、日々授業を担当していた生徒たちと接している中で浮かんできた“ある疑問”だった。 
 
「すごくみんな頭もいいし、勉強もすごく真面目にするのに、何か受験だけに縛られているような感じがして。すごく『人生の選択肢が狭い』というか。 
まるで『この道しかないよ!』とか、あっても2つとか(言われているみたいで)。 
もちろん勉強はしないといけないんだけど、とにかく良い大学に行くことがすごくプレッシャーになってたり、勉強することがプレッシャーになってたりしてるのを感じて」 
 
「でも、『もっと選択肢が増えたら、この子たちの能力はもっと生きるんじゃないかな』って、すごく思ったんです」
 
一方で、担任としてクラスの生徒たちと、将来の夢や(それに繋がる)進路やキャリアなどのやり取りを重ねていく中で、自分自身の力不足を感じる気持ちも増していった。 
 
「『自分ももっと外のことを知らなきゃ』っていう気持ちも(担任になったときから)ずっとあって」 
 
そして、「そう思ったのも、やっぱり『自分に選択肢がなかった』から」と認識し始めていた。 
 
「私、自分の経験したことじゃないと、うまく伝えられなくて。自分が楽しいとか、自分が感動したり、強い気持ちで感じたりしたことじゃないと伝えられなくて。 
だから、やってみないとわからないけど、例えば、海外に出てみて、実際に知ってみるってのも一つだし、違う仕事に就いてみて、(教育現場とは)全く違う仕組みとか大変さとか、それが『高校生とどう繋がっていくのか』とか(を体感しながら、知っていくこと)も一つだし、と思ったんです」 
 
自分自身はこれまでの6年間、教員としての経験しかない。 
 
その状態で、生徒に自信をもって、「もっと将来の選択肢を考えてみよう」と言えるだろうか。 
もし本当の意味で生徒に選択肢を示すためには、そもそも自分自身がもっと選択肢を経験してみる必要があるのではないか。 
 
そんな思いが積み重なったことで、一度教員を離れ、様々な選択肢を試していく決心に至った。 
 
そして迎えた3学期の最後の授業の日、今年度で学校をやめることを授業を担当する生徒たちに伝えた。 
 
すると、生徒たちから「先生、なんで辞めちゃうんですか?」と聞かれ、 
一呼吸置いて、話し始めた。 
 
「海外に住んでみたいっていう夢を叶えるため!生き方って色々あるんじゃないかなと思ってて。私は良い意味でも悪い意味でもプライドってものがなくて。 
色んな生き方があるけど、私はどれもそれぞれ良い。というか、良いか悪いかなんて本人しか決められたいと思うし。 
自分で選択するってことは自分の責任だから、何かあっても人のせいにできないし。 
逆にだからこそ『色んなことが起きてもポジティブに生きるしかないじゃん!』て思えるし、もしくは、また違う選択肢を探せばいいし。 
 
先生っていう仕事も好きだし、給料も貰えているし、辞めるかどうかもすごく考えた。 
だけど、今までと少し違う人生を過ごしてみるのもありかなと思ってて。 
生き方なんていっぱいあるんだし、生き方に良い悪いはないんだから、気にしないで生きていこうかなーと思って」と答えた。 
 
「仮にこの先、(教員を)辞めて、留学から戻ってきて、アルバイト生活になってるかもしれないし、でもそれはそれで楽しめばいいし、やってみなければわからないし。でも、『それはそれで私の生き方だから』って言ったら、受験ですごく悩んでた女の子が解放されたみたいで、すごく泣いてたのかな。 
(その女の子は)『部活もあって、みんなが勉強を頑張っているクラスにいて。でも、自分はなかなか成績が上がらなくて。すごいプレッシャーがあって色々思ってたけど、すごく気持ちが楽になりました』って言ってくれて」
 
 

「クラスの一人ひとりを大切に思う気持ちを持たせてくれて、ありがとう」ーー 卒業式の日に生徒たちへかけた言葉


月日は流れ、クラスの生徒たちの進路も無事に決まっていき、いよいよ卒業式の日を迎えた。 
 
当日の最後のホームルームでは、生徒たちへの感謝の気持ちと同時に、自分自身も、このクラスの卒業をもって教員を辞めることを生徒たちに打ち明けた。

 
「(教員を)辞めるって決めたときに、ちょっと振り返ってみたら、 
自分にとって『この職業は、何が素晴らしかったかな』って思ったときに、いつも担任のクラスや授業を担当しているクラスの子たち、一人ひとり自然と大切に思って日々接してて。
 
『こんなに多くの人を大切に思いながら毎日を過ごすことって、なかなかできない経験かもしれない』って考えると、これってすごい職業だなっと思って。
 
そして、そんな気持ちを毎日持たせてくれた生徒にすごく感謝していて。 
生徒がいたからこそ、自分一人じゃできないことにも沢山チャレンジできた教員生活で、 
それが自分の成長にも大きく繋がっていて。 
 
そういう意味も込めて、生徒たちに『クラスの一人ひとりを大切に思う気持ちを持たせてくれて、ありがとう』って、最後に話したと思います。 
やっぱりそのときに、自分にとっては良い仕事だなって思いました」。
 
 

一番良かったことは「日本を好きになった」こと ーー 留学から得られた ”新しい感覚”

 
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卒業式でクラスの生徒たちを送り出し、自身も同じ3月末で教員を退職。 
その後、慌ただしく準備を整え、数日後には、最初の選択肢として選んだ「留学」場所のオーストラリアへ向かった。
 
それから1年間、日本を離れてみたことで感じたのは、自分自身としては”意外な感覚”だった。 
 
「オーストラリアへ留学して、一番良かったことは、”日本を好きになったこと”かなって思ってて。 
 
「正直、海外へ行く前は、このまま海外にいるかもしれないし、世界のどこでも生きていけるようになるスキルを身につけようかなって考えてる時期もあったけど、
 
最終的に1年間を終えたら、私はこの素敵な日本で、もちろん嫌なところや(他の国と比較したときの)忙しさも感じるけど、やっぱり他の国にはない良さをたくさん持っている、この国で働きたいって気持ちが出てきたんです。
 
だから、『日本を好きになった』っていうことは、自分の中では”新しい感覚”で」
 
そう感じ始めたのは留学生活を始めてすぐだった。
 
「日本人とは違う責任感への価値観を感じる場面が多々あって。だから、日本てこんなに住みやすくて、なんでも揃ってる環境があるんだって思う反面、この環境をキープできてるのは組織の中で一人一人が責任感を強く持ちながら日々忙しく働いてるからなのかなーと思ったり」
 
また、その心境の変化は、オーストラリアでの留学中に出会った様々な国籍の人たちと直接ディスカッションする機会の中でも生まれてきた。 
 
「たとえば、”阿吽の呼吸”とかも、日本に住んでいて、日本人しかいない環境にいたら、それが普通だから、なかなか感じられない。 
けれど、多国籍の人たちと物事を決める時に『これは普通じゃない』って感じたり。
 
あとは日本人として嫌な思いをしたことが1度もなかった。 
逆に日本人で良かったって感じる場面が沢山あった。 
それって、きっと日本人のイメージがあって、それは日本の長い歴史が作ってきた文化とか国民性(アイデンティティ)なんだなと。
 
日本って災害とか、戦争とか色々あって、何もなくなることもあるけど、復興もすごく早いと(日本以外の国から来ている)友達に驚かれました。 
大きい地震とか火事とか何回もあって。でも、それが日本にいたら、すごいとも思わないけど、海外の人から見たら、その力ってすごい。 
 
そうできるのは、やっぱり国民性の影響が大きいと思ってて。 
 
『日本人としての国民性(アイデンティティ)を”考えなくても”持っている』自分たちがいる、っていうことに気づいたんです」 
 
また、留学中に仲良くなったメキシコ人の友人は、実際に日本に来て、日本を見た上で、母国の歴史や現状と比較しながら、 
 
「どの時代も『ヤバイ!』っていう状況になったときに、『日本を変えなきゃ!』とか『こうしなきゃ!』とか、”本当に思って動く人”がいる日本ってすごいことだと思う。 
日本には、そういった先人や祖先の生き様やルーツなどを辿れることが(日本人として国民性やアイデンティティを形成する上で)大きな強みなのではないか。」という話をしてくれた。 
 
悪いところもいっぱいあるけど、この世の中。でも、そうやって本当に”前に向かって動く人”もたくさんいる(日本の)素晴らしさにも気づけて」 
 
そういうところから、「『日本で働きたい』とか、『国民性の尊さ』とかを感じる気持ちが生まれた」と語る。 
 
そして、「どこで働くとしても、”日本人としての自信”とかを持てれば、もっとポジティブに働けるんじゃないのかな」っという思いも強まっていった。 
 
「そう思えたら、やっぱり『日本を拠点に働きたい』って、考えるようになったんです」 
 
留学という、一つのオプションを通じて、外から日本を知る機会を得たことで、また新しい感覚と見方を得ることができた。
 
 

”熱意”を持ってやってる自分でいたい


教員を退職し、留学を経て帰国した今は、 
自分自身にとって、あらゆる選択肢を試しながら、新たな経験を積んでいく期間だと捉えている。 
 
そして、またいつか教員に戻る気持ちも持っている。 
 
「生徒が『感動する』とか、心から『面白い!』っていう表情をしたりとか、その瞬間を見ることが、私はすごく楽しくて。 
そういうのが、いつか先生に戻りたい理由の一つなんですよね」 
 
「自分もそうやって誰かに影響されて、いつも人生を変えてきたから、 
やっぱり『自分も”そっち側”になれたらな』って思ってて」 
 
教員として勤めていた時は、「やっぱり理想とする人が(目の前に)いたから、『私もこの人たちみたいに、誰かの人生を変えられるような人になりたい』って思ってたのかも。 
だから、『いっぱい経験しなきゃ』ってなるし、やっぱりそれが大きかったかな」 
 
「(誰かの)『人生を変える』ぐらいまで大きなことは言えないけど、なにか『感動するきっかけを与える』とか、その人の『オプションを増やす(きっかけを与える)』とか、 
心から自信を持って『こういうのあるよ!』って言えるように」 
 
そのためには「やっぱり自分が、本当に熱意を持ってできる仕事に取り組むとか、 
もちろん仕事以外でもいいと思んですけど、『熱意を持ってやってる自分でいたい』、かな」 
 
「それが自分の尊敬している人たちに共通してることかも。 
(生物の先生をはじめとして)私が尊敬してる人たちは、すごく何かに対して熱意があるから」 
 
「教員の時は、生徒たちが(自分に熱意をもたせてくれる)”原動力”になってくれて、生徒たちのおかげで色んなことができて。 
だけど次のステップを経たときには、(今度は自分が)生徒たちに”きっかけ”を与えられるような(熱意と経験の両方を合わせ持った)人間になっていたい」と考えている。 
 
「いつか、もう一度、先生に戻りたいとは思ってるけど、そのときには、もっと生徒たちの選択肢を増やしてあげたい。 
そのために自分がいろんなことを経験しないといけないから、しばらくは教員じゃなくて、違う会社とか、違う職業で働いてみたい、っていうのを今は強く思っています」 
 
「まずはやってみて、選択肢を増やしてみて、その選択肢に自分がトライした状況で、(教員の世界から、一度)飛び出してみたら『どんなオプションが増えたのか?』を話せるようにしたい。 
試してみた中で『元からあった選択肢も、意識が変わったことで見え方が変わる』ってことも全然あると思うし」 
 
「今は、いつか(最後の授業で話したときの)生徒たちから『あのあと、先生はどんな選択肢が増えたんですか?』っていう質問がきたときに、(その答えを)“話すための過程”を作ってる感じかな」 
 
まだまだその過程は始まったばかり。 
 
もちろん今までと異なる道に挑戦することへの不安もあるが、 
自分自身を実験台に、うまくいったことも、うまくいかなかったことも含めて、のちに生徒に話せる経験にしていきたい。 
 
そう思って、目の前にある選択肢に一つずつチャレンジし続けていく。 

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プロフィール

田邊 茜(たなべ あかね) 
1987年度生まれ / 東京都出身。  
 
大学卒業後、都内の中高一貫校にて1年間、実験助手のアルバイトとして勤務。 
翌年度に正式採用され、生物専任の教員として働き始める。 
その次年度にインターナショナルコースへ異動し、2年間の副担任を経て、高1のクラスを受けもつ担任となる。 
日々、担任としてクラスの生徒と向き合い、将来の進路や将来などを一緒に考えるキャリア形成の仕事にやりがいを感じていた一方、 
 
授業を担当していた生徒たちと接する中で、 
次第に「もっと選択肢が増えたら、生徒たちの能力はもっと活きるんじゃないか」と感じるように。 
それと同時に、「今の自分には選択肢がない」という、自分自身への”もどかしさ”を感じたことをきっかけに、当時受け持っていたクラスの卒業に合わせて、自身も教員を退職することを決意。 
退職後、自らの選択肢を広げる最初の一歩としてオーストラリア・シドニーへ語学留学。 
留学中に「日本の良さ」を再発見したことで、留学後は「再び日本に戻って働きたい」という思いが強まる。 
 
今春帰国し、将来的に教員に戻ることも視野に入れつつ、しばらくは(慣れ親しんだ)教育現場を離れ、これまでとは別の分野で経験を積んでいく。 
それによって、いつか教員に戻る際に、自身の実体験を通じた選択肢や考え方などを伝えられるようになることを目指している。 

 
 

編集後記


「とにかくいつも動いてて、本人が最高に人生を楽しんでる」 
 
「私とは全然違う生き方だけど、すごく影響あるかな(笑)」 
 
田邊さんがそう語るのは、仕事にも趣味にも地域のボランティアにも、いつも活発に取り組んでいる「お母さん」のこと。 
 
「教員を辞めて、留学するって打ち明けたときも、突然言った時には、最初は心配してたけど・・。 
次に言った時には、『人生一回だから、楽しんでこい!』だったかな。そんな感じでサラってメールをくれて」 
 
「(留学中に)帰国した後のことを色々考えてネガティブな気持ちになってたときにも、お母さんから、お母さんの好きなロダンの言葉がメールが送られてきて。 
全然その話はしてなかったし、なんだか不思議なんだけど、ちょうどいいタイミングで送られてきて。 
 
そのメールを読んだら吹っ切れて、『今やりたいことを”やり抜こう”』っていう気持ちになれた」と振り返ります。 
 
「(普段は)そんなに多く話さないけど、なんか分かってくれてる感じがする。
そして、昔からやりたいと言ったことには反対せず、影で誰よりもサポートしてくれる父の存在が私らしく人生を選択してこれた大きな理由なのかな。」 
 
そんな両親の存在が、田邊さんの一歩を支えているのかもしれません。
 
(編集:87年会 / 撮影協力:石橋みなこ)

 

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